2008『諦』

押し迫ってますが、追い込まれ気味す。
そんなギリの状況で今年のひと文字が
浮かんできた、ソレってば、、、


   『諦』


とにかく、”諦め”を痛感する今年だったか。
日常生活は毎年そんな状況なんだケドもさ、
特に今年は精神的に考え過ぎ具合ってのに
拍車が掛かる出来事が(世間的にも)多くて、
いやぁ精神的に”キーッ!(`ヘ´”)”ってなった
事態が多かたすなぁ、今しがたもそんな作業を
カタしたので、ムラッときてこんなん書いてます。


サッカー的にもね、今期開幕から地上波では
Jリーグの試合は観れず、JEFは勝てず連敗。
監督交代する事態になり、正直諦め半分で。。


でも、コレはずっと前から抱えてる考え方で、
”諦めた上で諦めない(粘着)”ってのがあって、
もう持論と自己納得の世界なのですが、そんな
”諦める”ってのを悲観的に捉えてなくてですね、
世の中、こんなモンだわなぁ、、という”諦観”て
捉え方も悪くないと思てまして、ソレは自身が
措かれた状況を俯瞰で把握認識する術でも
あるんではなかろうか、、と思てたりするワケ。
諦めるってーと、自暴自棄みたくマイナスな
解釈をされるかもしれないけども、身の程を
知り弁える内省という捉え方もあると思うしね。
自棄になるかならないかは、その状況に対し
措かれたテメェ自身のなんだ自意識ってのに
拠るんだと思うから、たとえ理不尽な事態で
諦めざるを得なくても、自身の捉え方と言動で
納得はさせられると思てたりするんだな。
何らかの関係性がある以上、何事も納得が
出来るよーな事はそんなあるワケないしね。
だが、その上で諦めねーからな、、というよな
心意気(粘着)ってのは真の前向きなのでは
なかろうか、と感じるすょ。ただ単に諦めない
とかいう聞こえの良い前向きよりは本質的な
考え方だと強く感じるのが”諦観”だなーと。


なんかねぇ、今期の最終節、残留を決めた
FC東京戦の映像をYoutubeで観てまして、
JEFというチームには、追い詰められた時の
目と腹と腰の据わりっぷりに、この”諦観”を
内包している強さを感じたりしちゃったりして、
自棄にならずに、その状況で出来る事をやる
その姿勢ってのが、最終節の逆転に繋がった
ように個人的には感じるのだな、アノ状況で
プレーが浮ついてなかったのは凄みがあるょ。
(前にあったJ1参入決定戦の時を思い出した)
確かに他力に拠る部分もあったんだけども、
ソレも含めて地力を発揮できるのって、自身の
措かれた状況を把握出来る”諦観”を持った
認識がチームとしてあるからなんじゃないか、
と勝手に思てたりはするな、ただ単に目標を
目指して諦めないってだけではないんだろと。


高い目標を持って、ソレに向い諦めないって
ソレだけが前向きだけでもないだろとは思うし、
高い志は”絵に描いた餅”にもなりかねないし、
間違うと損得だけになる危惧もあると思うん。
本質的な志の高さってのは、目標を目指す
目指し方ではなく、その場の言動に対する
自身の姿勢なんだろと思てたりするからね。
”諦めたら終り”だとは簡単に云えるけども、
諦めて残念がるというのは、諦めきれてない
現れなんだと思うから、ソレは表層的だなと。


アノ、旧ユーゴの想像を絶する極限状態を
潜り抜けたオシム爺ちゃんにも”諦観”を
以って状況を把握し判断決断する意思を
感じてたので、サッカーとか采配とかより、
そういった部分に惹かれたんだなー、多分。



でも、現実の日常生活ではやっぱ理不尽で
諦めきれない悪あがきも多々あるからなー
まぁ日常ってのはそんな悪あがきの連続か。
最高の選択だとしても、最善とは限らない、
そんな真理を漠然と信じてたりするかな。


年末押し迫ってこんな考察を廻らせるくらいに
理不尽な苦行に諦めきれない自分が居るーw
世の中、そんなモンだわなぁ、、(=。=;)諦。


諦観を超越して達観すればそらぁシアワセかもw